あの世とこの世 Ⅱ
死後の世界はカルマが存在しませんが、肉体の世界は個々の自我が持つ自由意思がお互いに交わる場所なので、カルマが存在します。ですからまたこの世に生まれ変わるには、以前の生のカルマを全て背負ってくるしかないのです。
例えば、罪を犯して国外に逃亡した人が、その国にまた帰るということは、その国での罪の責任を再び負わなければならないのと同じ道理です。(もちろんカルマは罪とは異なりますし、誰かに裁かれるものでもありませんが)
このように、死後の世界から見た時に肉体をもってまた生まれることは、極めて困難な決定なのです。
大変な覚悟をしてまた生まれ、今回の生では何かを成したいという大きな決心をしたにもかかわらず、実際生まれるとその事実を忘却し、世俗の流れに飲まれて生きていくようになります。
そして死んでからまた、生前の愛を成せなかったことに対する悔恨、富を享受できなかったことに対する悔しさのようなもののストレスを解いていきます。そうしてまた、新しい経験をしてみたくなって、再び大変な覚悟で「今回はこのように生きなければ」と生まれて死ぬことを繰り返すのです。
ですからこの世にいる間に、両方の世界を知ること、この世界も覚り、あの世も覚って、もうこれ以上現象に飲まれないという自覚を持つことは、大変有効です。
私たちは物質次元に留まって、「有」の観点を通して見るため、その形態をとっていないものを「無」と称するようになったわけです。そして「有」の形態を失う過程を、消える、死ぬ、消滅する、終わる、と考えます。
このように、実際には自分の観点の問題であり、その観点を通して見える現象と形状に問題があるのではないのです。
観点とはすなわち、自分の固執でもあります。形態という固執、存在という固執、私という固執です。
しかしこの固執という観点を通してい見る世界は、それが何であれ、正しい実像とは言えません。
それは固執によって歪められた相対性の世界にすぎないのです。固執はいつも一方に偏っている、間違っている、という偏りが生じるのです。
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