意識とマインドと瞑想

意識は本質で、マインドは社会や文化や教育によってつくられた、いわゆる借り物です。

マインドは条件づけを意味し、例えばキリスト教徒のマインドを持つことはできても、キリスト教徒の意識を持つことはできません。

それぞれの文化、それぞれの社会が、異なったマインドをつくります。

一方意識はひとつで、それは分類できません。

マインドは決して沈黙しません。ですから「静かなマインド」というのは意味がありません。

それはちょうど、「健康的な病気」と言っているようなものです。

沈黙があるとき、そこにマインドは存在せず、マインドがあるとき、沈黙は存在しません。

瞑想とは、あなたの内側に条件づけがない、という状態です。

あなたの純粋な意識とともに、ただ、あなたが在る、ということです。

あなたの本来の顔を見つけ出しなさい。

あなたが使っている顔は本来のものではありません。

あなたはたくさんの顔を持ち、瞬間ごとにその顔を変えます。

今では変えることがあまりにも自動的で、そのことに気付くこともさえありません。

しかしそのなかのどの顔も、本来のものではありません。

あなたの本来の顔、生まれる前に持っていた顔、あるいは死ぬときに持つであろう顔を見つけ出しなさい。

その他の顔は全て、あなたのマインドから来ています。

誰もが、朝あるマインドを持ち、昼過ぎには異なったマインドを持ち、夕方には更に異なったマインドを持ちます。

マインドは流動的で常に変化しています。

意識は永遠で、ひとつです。

それは、あなたが生まれたときと死ぬときで、異なってはいません。

それはひとつで、同じで、永遠です。

子どもは子どもらしいマインドを持ち、老人は老人らしいマインドを持ちます。

しかし子どもも老人も同じ意識を持ち、それは決して子どもっぽくもなければ年老いてもいません。

マインドは時間の中を動き、意識は時を越えて生きています。

あなたたちはマインドと同化しているのです。「私はこのように考える。これが私の思考だ。」と。

それは他の人たちによってあなたに与えられたものです。両親、社会、大学などによって。

あなたの純然たる意識に留まりなさい。純粋で、無垢な意識に。

これが、人がどのように外側から内側へと動いていくか、ということです。

マインドから瞑想へ、幻影から真実へと。


DivineSource

人は何かに属すことで安心する傾向にありますが、それは本質からはかけ離れた行為です。 DivineSourceは魂の成長とともに自立した個人を目指します。 そこにはリーダーや組織は存在しません。 思考はエネルギーです。 思考するから現実が起きるのです。 思考が先、現実はあとなのです。 自立したあなたのまわりには、真の仲間がたくさん集まってきます。

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