死後の世界は地上の世界の延長
天変地異などにより、相当数の人が同時に命を失ったときに発生する深刻な問題の一つに、犠牲者間で互いに意識の共有が起こるということがあります。
ほとんどの人は、死ぬ瞬間の無意識な状態で霊魂があの世へ運搬され、その後あの世でゆっくり目覚めていくことで、楽に死を受け入れるようになります。
しかし死者の間で意識の共有が起こると、あの世へ行く途中で、昏睡状態だった死んだ霊魂の意識が目覚めるという状況が広がってしまいます。
この集団での意識の覚醒によって一時的に意識が目覚めた死後の霊魂は、幽体離脱の状態と同じく、自分の死を見守るようになるのです。
そこで自分の死の残酷な現場と凄惨な自分の死体を見るようになり、生きている人たちの号泣や悲痛な絶叫が彼らにも伝わり、このような感情を生きている人と同じように感じるようになるのです。
このような、一時的な集団での覚醒現象が起こるのは、死ぬ瞬間に訪れるれる恐怖の想念、不安な気持ちが、お互い頼ろうとする群集心理を誘発させるためなのですが、このように結束した多数の意識によって、他の亡くなった者たちの意識がぽつりぽつりと目覚めていくことで、問題が生じるのです。
生きているときも、大勢が集まれば意識の共有が起こりやすくなるのと同じです。
ところが問題は、死者たちの死への認識が、そこで止まってしまうということにあります。
自分はこの世界を離れた、そして二度とこの世界に帰ってくることができないという認識だけに固定され、非常な恐怖状態に陥って、なかなか抜け出せないケースが多いのです。
彼らは、自分たちが天変地異によって死んだという事実の為に、世の中から捨てられたという、ひどい喪失感と恥辱感を持つなど、極端な自殺者と似た心理状態を見せます。
結果として、他の霊魂のこのような被害心理を刺激してしまうこともあります。
その悲痛な叫びは、生きている人よりもっと悲惨です。
再び世の中へ戻してくれと哀願する霊魂たち、自分は絶対にこの世を離れられないと主張する霊魂たち、家族と分かれては生きていけないという霊魂たち、自分たちはもうどこにも行く当てがないと絶叫する霊魂たち。このように数限りなく生まれ出る恨みの多い霊魂たちは、実は霊的次元の人類史においても大きな問題なのです。
このような頑なな霊魂たちが居るところは、この世でもなくあの世でもない、いわゆる中陰というところです。
ここで彼らは、自分の死を謙虚に受け入れるまで、ずっと彷徨うことになり、霊魂によってはこの世の時間でほとんど永劫に近い歳月を、ここで送っているケースもあるのです。
それはまるで、覚めない夢を見るようなものです。
しかし、そのような霊魂が自分の死を受け入れるようにするため、死後の世界には、彼らを世話してくれる保育士のような存在達がいます。
それほど人類の大部分の霊的水準は、まだ幼児レベルです。
しかしその保育士役がどれだけ手を尽くしても、頑なに自分の死を否定する霊魂にはお手上げとなります。
この世でよく「俗物」と称される人たちが、その代表例です。
生きているとき、世俗的で、物質的で、肉体的な欲求と要望が全てだと考え、またそのように生きた霊魂たちです。
彼らは死に対する認識がなかったので、死後にも当然、自分が死んだという事実を認識できない幼児期段階の霊魂と言えます。
聖書に「地で繋ぐことは天でも繋がれ、地で解くことは天でも解かれる」という言葉があります。結局、この世であろうともあの世であろうとも、何ら違いはないという意味です。
死後の世界でも、今の性向のままに生きるようになります。
人が思い描く地獄とは、その霊魂の暗い想念が繰り広げる自分だけの世界なのです。
結局闇も、光を拒否する人の自由意思によって創造されるのです。そのため地獄も、その人にはそれなりの天国だと言えます。このように死後の世界は、それなりに自分に合う天国に行くのですから、相対的な観点で良し悪しを論じることはできないのです。
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