隠し通せると思うのがそもそも間違い
『私を主よ、主よ、と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか』(ルカ6・46)
あなたがもしお金が欲しいと思っているとしたら、部屋に閉じこもって神を信じているから神が与えてくるはずだとじっと待っていますか?
そんなことはあり得ませんよね。
ではなぜただ信じるという理由だけで救われることを期待するのでしょう。なぜ教会の会員になることが救いの条件になるのでしょうか。
救いはあなたの魂と神との個人的関係で起きることです。教会の会員になることが、神との内なる関係を育てるのであれば助けになるかもしれませんが、外見的に会員になることが、内なる関係を保証したり、その代用になるようなことは決してありません。
救いとは、エゴの制約から解放されることです。エゴの制約とは、肉体意識への執着により、魂に課せられているものです。どんな団体やグループであれ、他を排除するのはエゴのすることです。
救いは個人的努力によってのみやってくるものです。あなたの努力なしに決して救済が手に入ることはありません。
募金皿やお賽銭の金額を気にする人もいますが、神は心を見ています。募金皿を見ているわけではありません(笑)
もちろん、霊的な目的にお金を差し出すことは悪いことではありません。そうすることで人はよいカルマを積むことができます。それも心の在り方次第で大きく異なりますが。
「救われるためには神を信じきらなければなりません」などと言わなければならないほど神は人々の信じ方を確かめなければ安心できないとでも思っているのでしょうか。神が見ているのは、あなたの心の内側であり、神に対してこうあるべきだと言う人の意見や主張ではありません。
自分は無神論者だと思っている人のほうが、頭では神を信じながらも他者に対する行動においては思いやりのない人よりも、他者への愛を持っているがゆえに、神により近いところにいるかもしれません。神は全てをお見通しであることを忘れてはなりません。
それは心の内側における態度の問題です。
神に帰依するなかで、他者目線を気にした多くのものが装う外見上の謙虚さであってはなりません。
神にオープンになればなるほど恩寵は私たちの中に流れこんできます。それは外からやってくるわけではありません。それは内側からの、私たち自身の高次の真実の成せる業です。霊的意識に生きれば生きるほど、エゴから離れて暮らせば暮らすほど、あまたの恩寵がやってくるのです。
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