無知の知
私たちは本来一つの存在ですが、もしエゴがなく、どこまでが自分でどこから他人なのかわからなければ、この物質世界で機能するのはとても難しいはずです。赤と朱の違いや、プリンとババロアの違いを学ぶように、識別のためにはエゴが必要なのです。
実際、比較対照して区別する能力がなければ、この世界には何も存在しないでしょう。ですからエゴを排除することは不可能ですし、エゴに目くじらを立てる必要もありません。
しかし自己という未熟な枠に囚われてしまっては、宇宙の叡智を得ることも出来なければ、永久にエゴに囚われの身になってしまいます。
誰が知っているのか
誰の意見なのか
誰の功績なのか
この「誰」に囚われることがエゴの始まりです。
大切なのは「誰が」ではなく、中身です。
「無知の知」という、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスの有名な言葉があります。
ソクラテスはあるとき、デルフォイの神託所から「ソクラテス以上の賢者はいない」という神託を受けます。
これに対してソクラテスは、私は知恵のある者ではないことを自覚している。神は何の謎をかけているのか、と考え、この謎を解くことが神から課せられた自分の天職だと考えました。
そこでソクラテスは、賢明な人々のもとを歴訪する対話活動を開始します。その結果、賢明と言われる人々は「何も知らないにもかかわらず知っていると思い込んでいる」のだということに気が付きます。
それとともにソクラテス自身は、「何も知らないことを知っている」ということにも気づき、神託の真意が人間の無知を悟らせることだったと理解したのです。
それはソクラテスがのちに死罪となる罪を負わせられる原因ともなりました。つまり、ソクラテスの問答によって、相手の無知を公衆の前にさらすことになり、人々の怒りと憎しみを買う結果となったのです。
ソクラテスの哲学は常に対話によって導かれ、その特徴は相手の魂に働きかけ、そこから矛盾を導き出し、指導することにありました。その問答法は相手が知識を生み出すことを助けることから「産婆術(助産術)」とも呼ばれています。
私は「無知の知」は、真の知へと近づく第一歩であると考えます。
ソクラテスは「いかに生きるべきか」「よりよく生きること」について問い続けました。
無知である自分に気づいた時、人は安易な自己満足でごまかさず、自分と向き合い、真の知に近づこうとする探求が始まります。
それはいかに生きるべきかの探求へもつながります。ソクラテスの「無知の知」は、よりよく生きるための指針でもあるのです。
なおソクラテスが「無知の知」という言葉を使ったわけではなく、のちにプラトンが書き記したソクラテスの言葉が変化して日本に定着した言葉が「無知の知」です。告訴されたソクラテスが法廷で弁明する場面を描いたプラトンの著書『ソクラテスの弁明』にその記述があります。
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