スピリチュアルな成長におけるエゴの捉え方

ここでいうエゴとは、個人的に体験している現実や、アイデンティティを表す思考の集合体のことを指します。 そして、多くの人はこの思考の集合体や信念を役立つものだと信じています。

つまりエゴは、自己防衛的な思考の集合体です。
したがってエゴは、本質の目覚めにとって大きな妨げとなります。

エゴの根底を成しているのは、プライドと自己陶酔性であり、その弱点は虚栄心です。
しかしこの自己中心的なエゴに対して私たちは、無意識的に罪悪感を持っています。

スピリチュアルな観点からは、エゴはネガティブな特質を意味し、その二元性が悟りの障害になると考えられています。
しかし心理学では、エゴは世の中で効果的に機能するために必要な対処、あるいは生存のスキルだと解釈されています。

霊的探究者なら誰でも、神へ至る道は全て、明け渡しがその核心であることを知っています。
しかし明け渡しとは何か、またどうすればできるのかについては体験が全てであり、誰にでも明らかなものではありません。
ですから多くの人は「明け渡し」に何年もの年月を費やし、一歩も進んでいないと嘆くことになります。
マインドはわき目もふらず、果てしなく幻想を創り出し続けるので、いくら明け渡しても間に合いわないのです。

その際の解決の糸口のひとつに、執着心を手放すことがあります。
人は、感情的な愛を手放したくないと思っています。
しかしそれは、愛そのものというよりも、愛の対象への執着を手放すことができないのです。

人は、愛の対象を失うと、悲しみがやってくると思っています。
しかし実際は、執着心が悲しむのです。
そしてそれは、愛の対象が喜びの源であると思い込んでいることに起因しています。

悲しみとは、外側にある幸せの源泉を失ったという幻想から生じています。
しかし幸福感をよく観察してみると、それが内側に在るものだということに気付きます。
確かに外側のものが誘発したかもしれませんが、幸福感は内側から生じる喜びです。
つまり、幸せの源は内側にあり、心が欲する結果が得られた時の、好ましい状況の中で放出されるものなのです。

内面を仔細に観察すると、あらゆる事象は、もう既にそこに在るものをただ刺激しているに過ぎないことがわかります。
そして、喜びの源は内在しているので、失われることがないことに気付けば、怖れは減少します。

しかしエゴがなにものかよくわかっていないうちにそれを克服しようとすれば、罪悪感や自己非難など、様々なネガティブな感情を誘発します。
そしてそれが主な原因で、多くの人がスピリチュアルな成長を選択し続けるこことを躊躇してしまいます。

また、人は自分自身に正直になることを恐れ、エゴの悪い面を他者に投影します。嫉妬や報復、偏愛などはエゴの性質です。
より大局的な視点から見ると、エゴは本質的に自分本位であることがわかります。
エゴに注意を向ける必要があるのは、悟りは段階的なプロセスであるからです。

スピリチュアルな成長は、エゴの本質を理解することで促進することができます。 お話会などでも繰り返しお伝えしていますが、エゴは攻撃したり打ち負かしたりしなければならない敵ではありません。撃退すべきものでもありません。
思いやりをもって理解することで溶解します。

ですから、スピリチュアルな成長にとって望ましいのは、エゴの構造を良く知り、それを否定や罪悪感によって消滅させることはできないと知ることです。
エゴの執着は、容認したり、相手をよく知ったり、思いやりを持つことで緩和することができます。 反対に、自己批判や非難、怖れや恥はエゴを強化します。

エゴは究極的な真実ではなく、動物的な世界から受け継いだ一連の生存のためのツールでしかないので、超越することが可能です。
また私たちは、子供の感情的な表現の中にエゴを見ることができます。 つまりエゴは動物的であるだけでなく、子供でもあるわけです。
フロイトが精神分析の手法で明らかにしたように、無意識は意識化することで力を失います。

意識的に生きることは自らのパワーを呼び覚ましてくれるでしょう。



DivineSource

人は何かに属すことで安心する傾向にありますが、それは本質からはかけ離れた行為です。 DivineSourceは魂の成長とともに自立した個人を目指します。 そこにはリーダーや組織は存在しません。 思考はエネルギーです。 思考するから現実が起きるのです。 思考が先、現実はあとなのです。 自立したあなたのまわりには、真の仲間がたくさん集まってきます。

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