教育とは

教育は、物事を正しく理解している人がそれに携わることで、初めて成り立つものですが、これまでに詳しく説明してきましたように、1990年代ごろまでの地球では、ほとんどの人たちが正しくものを観ることのできない、自我意識に囚われている心の状態であることを、まず思い起こしてください。

このような状況の中では、人に何かを教えるという行為は、単に自分の偏見を相手に押し付けているだけで、教えられた方はもとより、教えた本人も自分の迷いを深める作業をしているに過ぎません。
なぜなら、人に何かを納得させようとする行為は、自分がそれを信じるためにやっていることだからです。

よく、発展途上国の子供たちが、生きていくために働かなければならないのを見て、「学校に行けなくてかわいそうだ」という人がいますし、学費を肩代わりしたり、学校そのものを作って、西欧の子供たちと同じように学校へ通える状況を整え、それで善いことをしたと信じている人たちもいます。
しかしながら、このような考え方は、西欧の価値観を基準にした固定観念から出てくるのだということに、注意していただきたいと思います。  

少し視点を変えれば、学校で間違ったものの見方を次々と詰め込まれて、目をふさがれて逝く自称先進国の子供たちよりも、自然の中で働くことにより様々な知恵を身に着け、同時に世の中への奉仕を行っている子供たちのほうが、はるかに幸せであるともいえるのです。

教育の現場では、教えるためのマニュアルがいろいろと造られていていますが、これらはみな、限られた経験をもとに、特定の状況でのみ通用した方法を概念化したものですから、様々な個性と背景を持つ生徒の、あらゆる状況に適応させようとすることは、土台無理なはなしなのです。  
個々の人間としての表現は、魂の傾向性も、幽体の波動も、身体の構造もそれぞれ違っていますから、心で到達する理解であれ、身体で会得する技であれ、他人の得たものをそのまま持ってきても使い物になりません。もしそれが可能であったとすれば、地上に人間をたくさん創った意味はなかったことになってしまいます。 『黎明』下巻 第24章 教育


DivineSource

人は何かに属すことで安心する傾向にありますが、それは本質からはかけ離れた行為です。 DivineSourceは魂の成長とともに自立した個人を目指します。 そこにはリーダーや組織は存在しません。 思考はエネルギーです。 思考するから現実が起きるのです。 思考が先、現実はあとなのです。 自立したあなたのまわりには、真の仲間がたくさん集まってきます。

0コメント

  • 1000 / 1000