あるがまま
私たちがこういうものだと信じている世界は、実は「個人的」な信念です。
原子の存在は実際には見ることができなくても、事実として受け入れられていますし、各地の交通状況から世界中のニュースまで、私たちはあらゆる情報を受け入れています。
ふだんはいちいち証拠を求めることもなく、情報を提供している人々が注意深い観察者であり、そのトピックについて正確な結論を出せるほどに熟知していると信じつつ受け入れています。
しかし、時折情報を提供する側の結論や推測が、自分たちのものとは違うことにも気付いています。
確かなことは、個人的な体験だけが事実だということです。
体験に対して知識は目的地に着くための地図に過ぎず、実際に歩くことの代用にはなりません。
知識はある状況を他の人に説明する上で大変役に立つものですが、たとえ知識を集めてあらゆる情報に通じていたとしても、日常生活にそれがほとんど反映されていなければ、その人は霊的に全く向上しないばかりか、知っていたにもかかわらずそれを実行しなかったという点で大きなカルマを造ることになります。
また、自分の限られた知識から作れた判断基準に照らして、他者をジャッジするというものがあります。
そもそもエゴの狭い視野に囚われている人間が、自分や他人に対して正しい判断をすることなどできるはずもないのですが。
他者の欠点が見えるということは、見る人がその波動を持っており、なおかつその欠点を許していない、つまり自分自身の迷いを相手に投影して見ているに過ぎないのです。
ところが他人を批判する行為は、この事実関係を覆い隠し、あたかも自分が相手より優れた存在であり、相手の欠点を正しく把握していて、しかもその欠点が自分とは無縁であるかのように自分や他人に思い込ませようとします。
これはエゴが生み出す巧妙な策略です。
また「なんとかしてあげたい」という思いは、相手の状況を尊重する意識がなければ、上から目線のジャッジであり、これは「相手の現状がよくない」というマイナス波動を送っているだけです。
自分自身が「あるがまま」であることができていないまま他者と向き合うと、他者に対しても「あるがまま」として尊重することはできません。
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