豊かな自立

人間には孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求があります。
その欲求を満たすために、祝祭をしたり、あるいはアルコールやドラッグや性行為に溺れる人もいます。
しかしこれらの興奮状態は強烈ではありますが、断続的、周期的であるため、合一性感は長続きしません。
一方習慣、慣例、信仰は穏やかですが安定して続きます。
孤立化を克服する最も一般的な方法は、集団に同調することです。
しかし、集団に同調することにはさまざまな落とし穴もあります。
習慣や信仰に基づく一体化とは、個性を持った人々が一体になるのではなく、個性を消して同一になることです。 これでは人間らしい一体化を得られたことにはなりません。

他者を他者と認めつつ、互いが融合できる完全な形が「愛」です。
そこで互いが融合できる関係にも二種類あります。
それは成熟した愛と、未成熟な共棲的結合とでも呼ぶべき結びつきです。 この二つは区別する必要があります。

共棲的結合の受動的な形は服従の関係です。
この場合、人は孤独感から逃れるために、自分に命令し、保護してくれる人間の一部になろうとします。
また共棲的結合の能動的形では人は、孤独感から逃れるために、他人を自分の一部として利用します。 自分を崇拝する他人を取り込むことによって、自分自身を拡大するのです。
どちらも互いに相手がいないと生きていけません。

成熟した愛は、自らの全体性と個性を保ったままの結合です。
愛は、人間のなかにある能動的な力です。

この時の「能動的」という言葉には注意が必要です。

この「能動的」とは、内面の能動性を表しているものです。
たとえば、不安や孤独感にさいなまれて働き続ける人や、欲から仕事に没頭する人は、はた目には活動的でいかにも「能動的」と感じられますが、実際にその内面は不安や欲に突き動かされ、きわめて「受動的」です。

一方瞑想している人は、外見的には何もしていないので「受動的」と思われますが、内面的には極めて能動的なのです。
瞑想は内面的な自由と独立がなければ成り立たないからです。

私たちが何かを選ぶとき、たいていそれを選ぶ理由があります。
しかし内面的に能動的であるためには理由があってはあらないのです。
もし理由があっての選択なら、それは理由という条件が選択を強制しています。
つまり、私の内面が能動的に選んだのではなく、条件によって受動的に選ばされたということです。

欲から仕事に没頭する人は、働いてもお金がもらえないとしたら働きません。
または働かなくてもお金がもらえるなら働きません。だから受動的なのです。

本当の瞑想をする人は、健康のためでも、修行のためでもなく、ただ瞑想するために瞑想するのです。

瞑想と同様、愛は能動的な活動です。
見返りや、快楽を理由とする受動的な感情ではありません。 愛は「堕ちる」ものではありません。

人は他人を愛する時自分の命を与えます。 それは他人のために自分の命を犠牲にするということではなく、自分のなかに息づいているものを与えることです。
そうやって与えたことによって、他人の中に新たな喜びや興味や、知識や、ユーモアなどの新たな生命が生まれ、それが自分にはね返ってきます。
こうして互いに共鳴しあえることに喜びを感じ、互いの存在と互いが作り上げた新たな生命に感謝するのです。 つまり愛とは、愛を生み出す力です。

もし、経済的自立や、世間体、不安といった理由から歪んだ愛の状態を続けているとしたら、今はいずれ有無を言わさずそれらを白昼のもとにさらけ出してしまう時代です。それは決して不幸なことではないどころか、豊かさへの第一歩なのですが、どう受け取るか、さらにはそのチャンスを生かすかは、その人の魂の成長によるところが大きいです。

DivineSource

人は何かに属すことで安心する傾向にありますが、それは本質からはかけ離れた行為です。 DivineSourceは魂の成長とともに自立した個人を目指します。 そこにはリーダーや組織は存在しません。 思考はエネルギーです。 思考するから現実が起きるのです。 思考が先、現実はあとなのです。 自立したあなたのまわりには、真の仲間がたくさん集まってきます。

0コメント

  • 1000 / 1000