瞑想
瞑想中に、いわゆる神秘体験のようなものをすることが、悟りを得たり、精神の高みに昇ることだと勘違いしている人はまだまだ多いようです。
目を瞑って自分の呼吸や、ある種のイメージに集中していくと、それだけでひとつの世界を創ることになります。視覚情報を遮断し、さらに五感からの情報も全て遮っていくと、心の世界、イメージの世界に入り込みやすくなりますが、ヴィジョンはあくまでもヴィジョンですし、そもそもそういうものを見るのが瞑想の本来の目的ではありません。
たとえ神秘的な体験をしたとしても、それも、怒りや悲しみなどと同じ心の現象。
どんな現象が生じてこようとも、囚われてしまうことなく、ただ生まれては消えていくさまを、あるがままに見つめていくことが大事です。
DivineSourceが大切にしているのは、どの瞑想をやればいいか、何時間やればいいかではなく、瞑想によって培った気付きや洞察を、実生活のその場その場の状況に応じて活用できるようにしていくことです。
実際は不安や怖れ、そして快感や神秘的な体感を含め、次々に生まれてくる思考や体験は、様々な因縁が複雑に絡まり合って生じ、また滅していきます。
ですからそれを観察することが大事であり、特定の意味や体験に囚われてしまうと、私たちは自由を失い、その意味や体験の虜になっていきます。
一般に、雑念が浮かんでこずに、心に静けさがあるときだけが瞑想ができている状態にあると理解されています。しかしそうではなく、ひとつの思考が浮かび、それに気付いて、それを受け止め、観察し、呼吸やそれぞれのやり方に応じてまた今ここに戻ってくる、その全体のプロセスが瞑想であって、その一連のプロセスから、無常や無我といった洞察を得ることが、瞑想の真骨頂なのです。
いずれにしてもやってみなければわかりませんし、満足したらそれまでです。
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