全ての人の最も良い教材は身近にある
全ての地球上の人間は、いつかは普遍意識に目覚めることになります。
それ自体は動かすことのできない自然の摂理なので、基本的には何の心配もいりません。
しかし、しなくてもいい苦労をしないで最短で目覚めるか、それとも多くの時間を費やし、迷走の限りを尽くすドラマを演じるかは、その人の自由意思に任されています。
意識がある程度進化してくると、人は、地上的な出来事のなかには本当の幸せ、あるいは永遠に続く幸せなど存在しないことに気付くようになり、普遍意識へのシフトを模索し始めます。
その際、山の頂上は一つしかなくてもすそ野は広いように、頂上に至る道は人の数だけあり、他人のやり方は参考にはなりますが、他人の真似をしても決して解脱に至ることはないということを多くの人は見逃しています。
未熟な指導者は、自分がある程度の意識に到達することができたやり方を、そのまま弟子にも強要しようとしますが、人間はそれぞれ意識の発達状態も波動も違い、得意とすることや不得手なことも皆異なりますから、弟子が指導者の言いなりになった場合、多くのエネルギーと人生の貴重な時間を無駄にしてしまうこともよくあることなのです。
独創性、創造性が非常に大切であり、誰のものでもないその人自身の表現こそが、普遍意識の発展となるのです。
神が地上に多くの人間を創造されたのは、それぞれの人に異なった役割をしてもらうためで、同じ表現を二度する必要は全くないということです。
それでは自分自身の表現とは一体何でしょうか。
霊的な問題に関心を持ち始めた人は、聖地と呼ばれる場所を尋ねたり、本物かどうかはさておいて、指導者(グル)に入門したりすることが解脱への近道と考えがちです。
もちろんこのような選択からもそれなりに得るものはありますが、大切なことは、その人の進化にとって必要かつ十分な状況は、既に目の前に与えられているのだという事実に気付くことです。
誰でも自分の周囲を見渡してみると、自分にとっては日常的な、しかし少しずつ変化している環境があります。
それは平凡なものであるかもしれませんし、波乱に満ちたものであるかもしれませんが、現に今、その場所とその仕事、そしてその人間関係の中に自分が存在しているという事実は、魂が自分の進化のために設定した課題を学ぶために、最もふさわしい環境を現象化しているのです。
つまりその人の進化にとっての最短距離は、自分の周囲に起こってくる出来事の一つ一つをきちんとやっていくことにあるのであって、他に何か特別なものを探したからといって、近道ができるわけではないのです。
きちんとやるというのは、日常のひとつひとつを心を込めて丁寧に、しかも確実に成していくということで、別の言いかたをすれば、心に思い、言葉によって語り、身体をもって行うことの一切が、真実の愛の表現になっているということです。
またこれは、DSペンデュラムセミナーでも「身口意(しんくい)」としてお伝えしているものです。
主婦の仕事はあまりにも日常的な印象が強いので、意識の向上の機会と言ってもピンと来ない方もいらっしゃるかもしれませんが、料理一つを取ってみても、それは愛の表現の機会そのものです。
料理は材料がもともと持っている固有の波動に、作る人の状態が作用するわけですが、その心が平安で愛に満たされていれば、調理は食物に調和したエネルギーを入れる作業にもなるわけで、食べる人の心身のヒーリングになることさえあります。
反対に不調和な意識状態で料理を作ったりすれば。それを食べる人に毒を盛っているようなものでもあります。
霊視能力のある人が、レストランで真っ黒なオーラを放つ料理が出てきたのを見て、食べずに帰ったという事例もありますが、そこまで見えなくても、なんか味気ないな、などと感じる方は少なくないのではないでしょうか。
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