固執や執着を手放す
水や赤子のような、柔軟で弱い生き方が、本当は最も強い生き方であり、無為自然な姿だと
老子は説いています。
道徳にしても常識にしても、所詮は人がつくったものです。
そのような人為の自己規範に縛られ、自分自身で苦しんでいるのが人間です。
では、その自己規範は絶対的なものでしょうか。答えは「ノー」です。
そしてルールや規範は考えない人のためのもの、あるいは考えない人をつくるものであることも落とし穴の一つです。
国や民族が違えば習慣も考え方も全部違ってきます。
親子や職場の人間関係も同様で、それらは育った環境や教育の差に過ぎません。
そこを無視して、自分の考え方に固執して相手に接すれば、断絶や衝突が起きるのは当然です。
現象はこのように、わずか数年の間に大きく変わるものです。
その最たるものが権力者による規範、すなわち法律といっていいでしょう。
「朝令暮改」とよくいわれますが、人為の規範がいかに移り気であるかを物語っています。
自分の考え方が正論だと思えば、相手も同じように考えるのは当然でしょう。
人為の道に固執して自分自身を苦しめるような愚かな考え方を手放すのが第一歩です。
人間は古代ギリシャの時代から真理を求め、多くの哲学者がいろいろな学説を打ち立ててきましたが、はたしてその中に真理といわれるものがあったでしょうか。
偉大な哲学者然り、宗教も然り。
今日世界で起きている紛争の多くが宗教がらみであることを見ても、その説く道の虚しさが分かるでしょう。
有であることをとことん突きつめていくと、その先は未知とか無限とかしかいいようのない世界になります。
その無こそが、万物の生々を司る根源であり、そして、有はまた常に無に戻ろうとする働きがあるとするのが、老子の説く「無の哲学」です。
もともと無であることを知れば、これほど楽な生き方はありません。
無所有、無我執、無差別という老子の思想は、こうした有無を同根とするところから生まれています。
この有無が渾然とした世界が「玄」です。
玄とは「玄関」の意味で「玄のまた玄」は夜空のような限りない深さを示し、そこから万物が生まれてきます。
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